V-storm50の時々日記 清張のこと 


間違いなく昭和を代表する作家のひとりに松本清張がいる。彼の代表作のひとつ「ゼロの焦点」はやはり傑作のひとつであろう。それは映像化が多いと言うことでもひとつの証明になるかと思う。つい先週ひかりTVのTBS系の再放送でドラマ版「ゼロの焦点」が放映され、懐かしく観た。ヒロインに星野知子、夫に勝野洋、犯人に大谷直子、夫の現地妻に竹下景子、犯人の夫に池部良が扮しほぼ原作に忠実にドラマ化されていて好感がもてた出来上がりとなっていました。

松本清張は常に読者に推理させながら社会の弱者や宿命を背負った人間の生きざま、あがき、そして偶然によって翻弄される主人公たちを描いているように思います。
そして清張作品の題名のつけ方はまさに作者のセンスが光っています!
「点と線」砂の器」「黄色い風土」「波の塔」「風の視線」「黒い画集」「渡された場面」「眼の壁」「蒼い描点」「果実のない森」などなど、原作を読み終わり最後のページを閉じたとき、その小説の主題を見事に表現していることを改めて気づかされてしまいます。この「ゼロの焦点」も物語のクライマックスで小舟に乗った犯人が沖に向かい、その姿も徐々に霞んで行き見えるか、見えないギリギリの場面を見事に表現しているように思います。
小説の最後の数ページはこんな文章…
 風が鳴り、海の轟きが極まった。「室田さん、奥様は?」「家内は…」「家内は向こうに行っています。」重なり合った重い雲と、ささくれ立った沖との、その間に、黒いものが、ようやく一点、見つけられた。(中略)その間にも、荒海の沖の黒い一点は、いよいよ小さくなって行った。「あの黒点も、もうすぐ見えなくなります。私は…」足もとの波がまた、砕けて轟いた。禎子の目を烈風が叩いた。

直近の映画「ゼロの焦点」は広末涼子中谷美紀ら。清張生誕100年に商魂逞しく乗っかった映画ですが原作が書かれた時代性と今現在が余りにもかけ離れ、あの時(戦後の混乱期と飢餓状態)の価値観や罪悪感が今を生きる人たちに理解されることはかなり難しいように思います。先日、再放送されたビートたけし主演の「点と線」もかなりの違和感を覚えました。

制作者が映画化やドラマ化にあたり名作のネームバリューに甘え、いわゆる基礎票を読んでいるような、いやらしさが見え隠れします。この「ゼロの焦点」ですがかなり前(40年くらいかな)NHKが時代劇に仕立てたドラマがありクライマックスで真犯人(確か小川真由美だったと思いますが)が自殺するため夕陽の日本海に船を漕ぎ出して行く姿がとても美しく印象的で櫓を漕ぐギイギイと云う音と潮騒、そして夕陽を背景の女のシルエットそしてキラキラと赤く反射する波が今でも瞼に焼きついています。この「ゼロ」の映像化がきっかけでドラマのクライマックスで潮騒と逆光のシルエットで探偵(警察)が崖の上で「犯人はアナタです!」と言い、犯行の動機やアリバイ崩しなどを語るシーンがサスペンス物の定番として定着し、その傾向は今でも多くの知恵の無いディレクターらにより、再現されています。

物語の舞台となった北陸の能登金剛
この「ゼロ」を清張の原作である戦後の復興期の昭和から江戸時代に設定を変えた当時の制作者の感性は素晴らしいと今でも思います。
もし自分が制作者だったならばこの作品の舞台をやはり江戸時代にしたと思います(是非、黒木瞳を起用して)その時代の方が平成を生きる人達に昭和30〜年代の価値感や常識を理解させるより遥かに伝わり易く、感情移入し易いと思うからです。

この「ゼロの焦点」は何度も映画化、TVドラマ化されています。十朱幸代のヒロイン、江原慎二郎の夫、奈良岡朋子の犯人。他には滝沢 修、露口 茂が出演したドラマはNHKだったような…。それにしても邦画界(洋画界もですが)映画オリジナルのストーリーも創造できず原作物やリメイクばかりしか作れぬ嘆かわしい時代になったもんです。