V-storm50の時々日記 許されざる者


オリジナルの公開時の印象的なポスター
クリント・イーストウッドの背中と背中越しの表情そしてスコフィールド銃
今回公開された日本版のポスターも渡辺 謙が同じアングルでポーズをとり
色彩も同じイメージで作成されていて疑似性が強調されているようだ。
少し目立たないが左脇に光るのは日本刀の鞘です。

9月13日より公開された「許されざる者」を初日に早速観てきました。
この作品はご存知のとおり1992年にクリント・イーストウッドの監督、主演で
失われゆく西部劇への郷愁、そして彼を世に送り大スターにした映画「荒野の
用心棒」のセルジオ・レオーネ監督と「ダーティ・ハリー」シリーズのドン・
シーゲル監督へ捧ぐ字幕スーパーと共にギターソロの音楽と共に大平原の夕暮れ
そしてシルエット(マニーが最愛の妻を埋葬する場面)が印象的なファースト
シーンの映画で第65回アカデミー賞9部門にノミネートされ最優秀作品賞をはじめ
監督賞、助演男優賞ジーン・ハックマン編集賞などを受賞しクリント・
イーストウッド自らも「私がウエスタン映画について思ったことを全て描いた
現代の古典」と語り、アメリカ映画のベスト100にも入り、評論家たちも
西部劇の傑作の1本に入り、これほどのウエスタンがこれから果たして創れるだ
ろうか?と絶賛した作品でした。

私も当時映画館でこの作品を観終わったあと、腰が抜けてしまうほどの衝撃を
覚えた作品でその後、レーザーディスク、DVD、そしてブルーレイと全て
コレクションしている大好きな作品です。この作品が21年後に再映画化されると
聞いた時の衝撃と興奮、期待と不安など、この作品を愛するがゆえの心の揺れが
あり、いい意味でも悪い意味でもそのできばえを注目していました。
しかも何と舞台は日本の北海道そして時代は明治維新後の1880年、更に主演が
渡辺 謙、柄本 明、佐藤浩市と聞き期待は高まっていました。
かって黒澤 明の「用心棒」がセルジオ・レオーネ監督、クリント・イース
ウッド主演で「荒野の用心棒」としてリメイクされ日本の時代劇とアメリカの
西部劇との共通性が実証され、今回もそのことが証明されました。
ストーリー展開やプロットに違和感がなく言わばスンナリと映画の世界に入って
いける作品となりました。

何よりも観客がまず考えさせられるのがこの「許されざる者」とは一体誰なのか?
と言うことを映画を観終わった後、深く考えさせられることです。
*残忍な人殺しだった過去をもった男
*町を絶対的な権力と暴力で支配する保安官
*賞金目当てで人殺しをする男たち
*客を笑いものにして顔を切り刻まれた娼婦
*傷ついた娼婦の代償として馬をもらった娼婦館の主人
*仲間の娼婦のため金を集め賞金をかけた娼婦のリーダー
*賞金稼ぎと旅をしながら物語を書こうとしている作家志望の男
オリジナルにしろリメイクにしろ正義と不正義、善人と悪人、白と黒などの色分け
はない。しかし、登場人物たちのそれぞれの立場、人生、生きざま、性格、
行動などを通し、それぞれの正義や価値観の違いが浮き上がってくる。
そして当時も現代も伝聞や報道、言い伝えなどで全く違ってくる事実など…。

そして「この世には恐ろしいことがひとつある。それは全ての人物が正しい
言い分をもっていることだ」この作品の登場人物たちもそれぞれが言い分がある
はず、そしてラストに考えさせられることは許されざる者が許され、許された者が
許されざる者となることもあると言う現実を見せつけさせられる事だろう。
この作品のテーマは奥深い。「生身対生身」「虚無対虚無」「擬態対擬態」「過去
対過去」そして「現在対現在」「男対女」「老人対若者」「和人対アイヌ人」
「法の番人対無頼者」「雪対雨」だがこの映画でカタルシスは味わえないし、
更に言えば教訓もメッセージもコメントも得られない。そこにあるのは厳しい
自然の中で繰り広げられる生身の肉体同士のぶつかりの挙句の深くて、
恐ろしくて、悲しくて、暗いそしてずしりと重く胸に突き刺さる受け手である観客の
それぞれの感じ方、結論であり答えのない問いかけだと思う。

日本版では1880年のワイオミングから同じ1880年明治維新後の北海道を舞台に
幕府軍と官軍、そして支配する明治政府と支配されるアイヌ人も描いている。
オリジナルのクリント・イーストウッドモーガン・フリーマンジーン・ハック
マン、リチャード・ハリスは日本版では渡辺 謙、柄本 明、佐藤浩市、國村 隼
がそれぞれ演じます。

私の比較論ではやはりオリジナルには適わなかったのが結論でした。