最近の映画が少しおかしい?

知り合いから招待券を戴き「ミッドナイトバス」を観てきました。長い!映画よりTVドラマ向きかな?原田泰造がふたりのイイ女に好かれるほどの魅力不足。何より新潟弁の会話がなく残念でした。昨今の映画は洋の東西を問わずなんだかおかしいと感じているのは自分だけだろうか?
BSでデジタルリマスター版の西部劇の名作「シェーン」を久し振りに堪能した。


「もう、おまえの時代は終わったんだ」 
「じゃ、おまえはどうなんだ」 
「俺は自分の引き際を心得てる」
ウィスキーを飲まず、いつもブラックコーヒーしか口にしない不気味な黒手袋の殺し屋「ウィルソン」(ジャック・パランス)対バックスキンの上下に優しい眼差しの「シェーン」(アラン・ラッド)そしてクライマックスの耐えに耐えていたガンファイト!
 1889年残雪の山並み、ワイオミングの雄大さ、名曲「遥かなる山の呼び声」監督はこの「シェーン」「ジャイアンツ」「陽のあたる場所」と変わりゆくアメリカの節目を描きアメリカ三部作とも言われた名匠「ジョージ・スティーヴンス」がメガホンをとり、西部劇の最高傑作と言う人も数多い。史実によるとアメリカ政府がフロンティア(西部開拓時代)の終焉を宣言したのが1890年。その一年前の物語。大地主の牧畜業者と開拓民の争いに最後の流れ者「シェーン」が巻き込まれ、正義と失われゆくヒーロー伝説や男同士の友情、家族のために働く男の意義、少年から見た英雄、人妻とのほのかな恋などを情感豊かに描いた西部劇史上、名作中の名作「シェーン」 配給パラマウント 1953年118分
残雪が綺麗な雄大なワイオミングの山脈を見晴らす草原を馬に乗ったガンマンがゆっくりと荒野の農家に近づいて来る。未知なる英雄を感じとった少年の瞳。「やぁ坊や、俺をじっと見ていたな。周りをよく見る男の子は好きなんだ。大物になる」
 何年も格闘してきた畑の真ん中の巨大な根っこをジョーイ少年の父「ジョー」(ヴァン・へフリン)と「シェーン」が汗と泥にまみれ切り倒す感動的なシーン。「ジョーイ」の母「マリアン」(ジーン・アーサー)との淡くはかない恋。
「ママ、ぼくシェーンを好きになっちゃった!」
「ジョーイ、あまりシェーンを好きにならないで」
「ママ、何故?」
「好きになると別れがつらくなるから・・・」  
     
全篇に流れる暖かさや、少年「ジョーイ」の目線で語られるヒーロー像はいつ観ても心に染み入ります。開拓者たちを力づくで追い出そうとするライカ―兄弟たち。
不敵な笑みの黒づくめの殺し屋との対決!映画史上に残る0.6秒の早撃ち!
決闘で傷ついた「シェーン」は「ジョーイ」に言う「人を殺したら二度と戻れないんだ」無法者やガンマンたちの時代が終わったことを観客は知る。「ジョーイ、家へ真っ直ぐ帰って、強い男になれ」
「シェーン カム バック!」ジョーイの声がこだまする平原をシェーンは去って行く…。
そして傷ついた「シェーン」は峠を越えて行く。ラストシーンスクリーンの端に見える十字架の意味するものは・・・。


直近の映画概況
 日本映画製作連盟が2017年の全国映画概況を2018年1月25日に発表した。
邦洋画を合わせ公開本数は1187本で過去最多で1日何と3.25本公開されたことになり
空前の映画ブーム?だったようだ。しかも最近の傾向として興行収入順の上位で見ると邦画が
30本で洋画が12本と邦画が圧倒的に興行収入を上げ人気だった。しかし邦画・洋画の上位
5位までを見ると
第一位「名探偵コナン から紅の恋歌
 二位「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険
 三位「銀魂
 四位「ポケットモンスター キミにきめた!」
 五位「君の膵臓をたべたい」
洋画部門
第一位「美女と野獣
 二位「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅
 三位「怪盗グルーのミニオン大脱走
 四位「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」
 五位「モアナと伝説の海」
と、なっている。これでいいのか?日本を含めた世界の映画界よ。映画はしょせんビジネス、
興行成績を上げ儲けなくてはならないから商業として考え、とにかく大衆が映画館に来てもらい、公開が終わればDVDなどソフトとして販売したり、レンタルビジネスで更に売り上げを
積み重ね、最後には衛星放送、ケーブルテレビ、地上波テレビでの放映など儲けるだけ儲ける
それがビジネス、だからテーマや内容などより、まず大衆が喜ぶニーズを捉えた企画がものを
言う。最近の映画製作会社やプロデューサーたちはみんなビジネスマンで、とてもお金儲けが
上手だということなんだろう。テレビが家庭に普及し始めた昭和30年代の後半「テレビは文化」
とテレビ局も創り手も自負して視聴者も文化を感じていた時期が間違いなくあった。しかし今
そんな香りなど消え果て情けなくも「テレビは日用雑貨」あるいは「スイッチひとつで見れる
動画週刊誌」に成り下がってしまった。映画もその昔、大衆にとって、まさしく「映画文化」と思っていたし、「総合芸術」として燦然(さんぜん)と輝いている存在だった、しかし昨今の
映画は果たしてどうだろうか・・・?

アンプ・スピーカー・コードそしてボリューム


かなりいい音になって来た。特に中高域が・・・
昨年から今年の1月にかけて不満はないが、なにかインパクトがなくてホーン型のドライバー(中域)とスーパーツィーター(超高域)どちらもJBLブランド、このJBLは特にJAZZに向く明瞭で鮮烈な音響が定評のカリフォルニアサウンドです。それを追加した。年齢を重ねるといろんな意味で体が劣化してくる。皆さん方も経験ある方も居られると思いますが、足腰の衰え、体力、スタミナは勿論だが物事に対する意欲、やる気、根気、達成感も気づかないうちに退化している。加えて顕著なのが視力、聴覚もそれなりに退化している。だからオーディオもどこかで体の退化に併せバージョンアップが必要だ。
変な例えですが山に登り頂上に立つと「ヤッホー!」と向こうの山に向かって叫ぶ時や喧騒の中で相手に明瞭に聞こえるよう口の周りを両手でメガホンのように丸めた経験があるでしょう。ホーン型とはあの原理なのです。ラッパ型のユニットをスピーカーの前に取り付け音を前に押し出す単純な仕組みなのですがこれが少し衰えた鼓膜に強烈なインパクトを与えるのです。

もうひとつスーパーツィーターも振動が普通のコーン紙ではなく金属が振動するのでまさに耳をつんざく高音を楽しむことができる。

ユニットを追加したらついでにスピーカーコードも変えようと放送局・劇場などで使用されているプロの業界で有名なBELDEN社のコードに変更しました。
オーディオマニアの間でさえよく勘違いされるのがスピーカーコードなどの音響用伝送ケーブルやコードは太い方が情報量が多いと「重くてぶっとい」コードでメーター数万もするケーブルを愛用する人が多いがそんなことは実は迷信。メーカーの創り上げた神話。自分の耳で確かめるのが一番。
更にもうひとつアドバイスするとアンプについてるボリュームは何のためか?実はボリュームは音を大きくするためではなく本当は減衰するために存在している。仮にコントロールアンプ(プリアンプ)とパワーアンプ(トランス側)を繋いで音楽を聴く場合、コントロールアンプのボリューム側で上げパワーアンプ側を絞るのがセオリーです。間違ってもパワーアンプ側を最大にしてコントロール側で調整しないこと。でも実はこの間違った調整をしている人がほとんどだと思う。

いや〜この音はビックリまるで目の前で歌手が唄い、プレーヤーが演奏しているような感覚!特に女性ボーカル、サックス、ペットの音のリアル感に毎晩酔いしれている。ダイアナ・クラールの色気ある艶、クリフォード・ブラウンのペットは唸り、ジョン・コルトレーンのサックスが輝く、カウント・べ―シ―のダイナミックさは王道、CDもアナログレコードも最高だ。

アナログレコード復活

当時はアンプのデザインに惚れ、電源を入れて機材を充分温めスタンバイになるまでの数十分間を至福な時間として楽しみ、その間にサイフォンでコーヒーを沸かし、レコードジャケットからレコードを取り出し、スプレーをかけ、ターンテーブルに乗せ、針を置いて音が鳴るまでの数秒にワクワクしてました。アンプの重厚感、巨大スピーカの迫力、等々音楽以外にも色々とワクワク出来ました。懐かしい時代。

昨日(6月29日)のテレビニュースでSONYが30年ぶりにアナログレコードの生産を再開するとの報道があった。オーディオファンの自分にとって、とても嬉しいニュースで翌朝の新聞でも写真入りで記事が掲載された。SONYの発表では自社は勿論他社からの発注も受けアナログレコードを量産する予定だとしている。
 ただ、再開に至ったコメントがいささか「カチン!」と来た。
SONY曰く、レコードを聴いて育った世代(ファン)だけでなく最近、若い人もアナログレコードや再生オーディオ装置にも人気が広がり需要が増えたためとしている。ライバルであるPanasonicの音響機器ブランドであるTechnics(テクニクス)も昨年突然目覚めたように往年のアナログレコードプレーヤーの名器SL−1200を復活生産販売を始めた。理由はSONYと同じように若者世代がアナログ音響を見直し人気が出て購買層が広がってきたためと説明した。
 世界をリードし日本を代表する2社のコメントを聞きアナログオーディオ世代には嬉しさと腹立たしさがある。(この世代はほぼ団塊世代を中心に前後だろう。だから年齢的には60代後半から70代、更に先駆者や大人になってから機器をそろえた人は80代かな)
当時は音響3大メーカーとしてパイオニア、トリオ(後のKENWOOD)、山水と言われ、ここにYAMAHAONKYODENON、に加えLAX、AKAITEACナカミチ、MICRO、オーディオテクニカなど専門メーカーが加わり更にビクター、東芝、三菱、日立、松下など大手家電メーカーまでも参入して昭和40年代の半ば位から50年代後半までコンポと言われる様々なメーカーの機種を自分の好みとお小遣いに合せ、取りそろえ聴きこんだ凄いオーディオブームがあった。そして更に海外ブランドもマランツ、タンノイ、アルテックマッキントッシュJBLBOSE、オルトフォンなども参入して大変なブームと共に大きな経済効果もあって各社が技術のしのぎを削り「原音忠実」「究極のサウンド」を目指した。  
当時ラーメンは50〜80円くらい、しかしレコードはドーナツ盤が200円、LP1500〜1800円だった(数年後にはドーナツ盤は300〜330円にLPは2000〜2500円になった)中々レコードが買えず、FMの音楽番組をオープンリールやカセットデッキで録音(これをエアチェックと言った)して膝小僧を抱え、たまに彼女を「いい音楽聴かせるから」と誘い部屋で聴いていたものだ。
がしかし、ブームが去ったあと、無用の長物としてホコリをかぶり隅に追いやられ、リサイクルショップやハードオフに山積みされレコードは捨てられ、そしてCDに代わり、再生装置も超小型化していった。
 その時代を含めミニコンポ、そしてウォークマン、そしてiPad更にハイレゾと進化した時代を頑なにアナログ音響を愛し、貴重なアナログレコードを大切に保存し、レコード針を探し求め、数少ない修理屋に頼り、全盛期の遺物とまで揶揄された総重量○○百キログラムの図体を大事に手入れし聴きこみ、部屋中を音響機器に囲まれて生活しこのオーディオ機器を愛着をもっている我々世代。
 一体、誰のお蔭でこの文化と技術が支えられて来たのだと私は言いたい。若者がちょっと古いアナログレコードを聴き、「意外といい音してるじゃん!」「このアンプ、スピーカー、レコードプレーヤー図体はデカいし重いけど操作も面白いしメチャカッコいい!」などと今まで見たことないモノの反応にメーカーが敏感にこれは商売になると目論んだ2社の軽薄な企業姿勢に何となく嫌悪感をもってしまったのは団塊世代のひがみだろうか?
この間に音響メーカーのトップを走った老舗のPIONEERは赤字に転落しそれでも採算を度外視し、頑なにいいものを創りつづけてきたがついに、部門ごとの切り売りし、本社ビルをも売りに出す悲劇に見舞われていった。残念!!!。
大手のメーカーはあのブームのお蔭で売り上げを伸ばし更に飛躍的な技術の進歩があったはず、それなのに今まで 「我々の要求には誰も耳を貸さず、新製品や再開はおろかパーツさえもなくなり、修理不能と送り返されたり、あるときは買った金額より修理金額が高くなりメーカー技術部から「どうされますか?保証期間なのでどうしてもだったら差額をご負担されるか購入品と同額の製品と入れ替えるか、どちらでも」と言われたこともある。
 果たしてこの現象はまたブームで終わるのかとつい、思ってしまいます。若者が飽きたらそれで終わりですかね。
携帯で音楽を聴くこともオーディオというのなら、今まさにオーディオブームでしょうね。
今、少し復活しているといわれているのは60代半ばから後半のいわゆる団塊の世代が引退して昔の夢を求め、購入されているためが大きいと思います。実際若い世代はそれほどではないでしょう。
「今のオーディオ売り場や雑誌を見ても何も感動しないし、買おうとする気がないそのかわり、粗大ゴミ集積場やリサイクルショップ、ネットオークションをふと見るとドキッとすることがある」
これが本音ではないでしょうか? 聴く人間も古く、そのうち捨てられるのかな。

熱き拳!


最近続けざまにボクシングのタイトルマッチ戦が行われテレビでも中継された。手に汗を握る戦いだった。ほとんどの日本人選手がチャンピオンとなったり、防衛して王座を守ることができた。ゴールドメダリストで無敗を誇る村田諒太の判定は誰がみてもおかしい判定で、どうやら再戦となるようだ。熱戦を観ていて、この映画を想い出してしまった。

ミリオンダラー・ベイビー」 愛する人よ、お前は私の・・・ 崇高な生命と愛の珠玉の物語配給松竹2005年133分 監督・主演クリント・イーストウッドヒラリー・スワンクモーガン・フリーマン
「これはシンプルなラブ・ストーリーだ」とイーストウッド自身が語った。(アカデミー賞主要4部門作品・監督・主演女優・助演男優賞受賞)
実の娘に愛想をつかれ、縁を断たれた初老のボクシング・トレーナーと、家族の愛に恵まれない孤独な女性ボクサーとの間に生まれる崇高な愛と絆の物語をイーストウッドは慈しむように最高のドラマにした。
どれくらいの観客がこの映画を「サクセス・ストーリー」の栄光と挫折を描いてると感じるだろうか…この映画はもっと奥深く、我々に突き付けられるテーマは重く、そしてつらい…
 娘にも見放された初老のボクシング・トレーナー「フランク=フランキー」(C・イーストウッド)「フランキー」の相棒でボクサー時代に負ったダメージで片目を失明した、かっての黒人ボクサーその名も「スクラップ」(モーガン・フリーマン)は切っても切れない仲。そして極貧のトレーラー生活の家庭で育った「マギー」(ヒラリー・スワンク)は場末の汚いレストランのウェートレスをしながら夢を掴もうとしている。客の食べ残しのミートローフを犬に食わせるからともらい、自分の食事にしてまで・・・。
登場人物はみな不器用で、人生に挫折して年老いていたり、夢を見るには歳を取り過ぎていたり、それぞれの切なさと孤独を抱えそれでも必死に生きている。
「女には教えない」とぶっきら棒にコーチを断るがマギーはジムに通い続け、黙々とサンドバックを相手に不器用なパンチを打ち続ける。或る日フランキーのパンチングボールで練習していたマギーはフランキーと言い争う「私が31歳だから教えないの?いくつまで待てばいいの?。13歳からウェイトレスをして兄は刑務所、妹は不正請求で生活保護を打ち切られ、父は死に、母は145キロのデブ女、私はそんな環境から抜け出したいの!私をチャンピオンにして、お願いフランキー。」そしてあくる日からふたりの厳しく地道なトレーニングが始まる。
映画の中心になるのは、女性ボクシングチャンプをめざすマギーのファイトシーンとフランキーとマギーの擬似父娘関係。娘と音信不通のフランキーは、マギーに娘を感じ、父親を亡くし、身勝手で冷たい家族を持つマギーも、フランキーの中に自分の父の姿を重ね合わせる。「フランキー」が「マギー」に指導するボクシングの上達を段階的に描く。
「サンドバッグだと思うな人間だと思え、回り込んで打つんだ。もっとアゴを引くんだ」
「見ていて気が付いた、君は足を動かさない。ひざを軽く曲げる、それがすぐ打ち込める構えの姿勢だ。」
「いいかマギー強いパンチより相手に効くパンチを打て」
「リズムだ、数を数えてもいい、ワンで打て、もう一度、次に右足を少し前に出し体重をかけ右で打つんだ、氷かきで氷をかくように」
「へたばっても休むな」
「低すぎる、右からフックを打て」
「ボクシングは理屈じゃない。人の考えの逆をする」
「左に出たい時は左に行かず右足のつま先を前に出す、右に出たい時はその逆」
「つま先から沸くパワーをひざを緩め、ジャブで爆発させる」
こういう細かい部分のリアリティさが、「マギー」が頂点に向け登りつめて行く過程で生きている。国内戦で次々と対戦相手をリングに沈め一躍女子ボクシング界の注目選手となる。

そしてふたりはヨーロッパを転戦するエディンバラ、パリ、ブリュッセルアムステルダム……。フランキーは世界に挑戦するマギーに、ゲール語アイルランド語)の「モ・クシュラ」というリングネームを背中に書いたシルク製の裏が白い深緑色のフード付きリングジャケットを贈る。「本物の絹だぞ!」
マギーがその言葉の意味を聞いてもフランキーは何故か教えない。その意味は映画の最後に明かされるが、この言葉の意味が分かった時、フランキーのマギーに対する気持ちが伝わり、ラストが意味深いものになる。
 前半は、サクセスストーリー、だが今まで様々なダーティーファイトを見てきたフランキーは忠告する。「マギー、ルールは常に自分を守る。注意するんだ」
 しかし、ダーティファイターとして悪名高き娼婦上がりで反則行為を繰り返し失格寸前のチャンピオン「青い熊」との闘いで、マギーがマットに沈んでから、物語は一転する・・・。
脳を椅子と床に強打したことで脊髄を損傷し首から下が完全に麻痺し、植物人間となったマギーはフランキーに懇願する。
 「ボス、お願いがあるの」 「いいとも、何でも聞くよ」
 「パパがアクセル(犬の名)にしたことを?」 「そんなことは考えるな」
 「でも、こんな生き方…ボクシングの試合に出て、世界中、旅をした。あたしの名を呼ぶ観客…。いいえ、あなたの付けたあの変な名前で応援してくれた。雑誌にも載ったわ。夢にも思わなかったことよ。あたしは生きた。思い通りに。その誇りを奪わないで。」 「死ぬ時もそうするわ、今の望みはそれだけ。」 「……」 「フランキーその邪魔をしないで。」 「できない。頼む。俺に頼まないでくれ」 「お願いよ」 「できない・・・」
後半にきて人間にとって大変重い「尊厳死」と言うテーマを私たちに突き付けられ観ている者すべてがフランキーと共に悩むことになる。
フランキーはその苦悩をスクラップにぶつける。
「彼女を生かすことは殺すことだ。彼女は神でなく俺に助けを求めている!」
そしてフランキーの決断に心が震える。
マギーの耳元でフランキーは囁く「マギー、【モ・クシュラ】の意味を教えてやる。愛する人よ、お前は私の血だ。」その意味を聞いたマギーはニッコリとほほ笑む。フランキーとマギーの心がひとつになる瞬間が心を打つ。そして同時にマギーに対するフランキーの想いが哀しいほど伝わってくる・・・。優しくマギーに口づけしたフランキーは言う。
「いいかマギー、君はこれから眠るんだ。」
そしてマギーのお気に入りの店、最高のレモンパイを食わせる郊外のダイナーでフランキーの後ろ姿を見かけるがフランキーは二度とジムに戻らなかった……。
「マギー」が天国に旅立ってもあの薬はまだ残っている、だから「フランキー」もきっと・・・。
 ボクシングジムで最も弱い青年でジムの選手たちにいつも馬鹿にされボコボコにされる純粋な「デンジャー」の存在が悲しい結末に希望を与えてくれる。
 この映画のモーガン・フリーマン演じる「スクラップ」の存在は大きい。若いときからの相棒で不器用で頑固なフランキーを理解する唯一の親友である彼の存在が映画の最後に生きてくる。それはラストにスクラップがフランキーとマギーのことを誰に語っていたかで全ての謎は解ける。重い結末だった。 

ブログトップを変更しました。


トップ画面のリニューアルです。同じ町内の若手イラストレーターに特別にお願いして「若々しく、カッコよくダンディに」と身の程知らずの要求で描いてもらった似顔絵です。このイラストだったら経年変化はありません。嬉しいです。

「学校Ⅳ」 3月の市民シアターご案内

人間にとって学校とは?十五才「学校Ⅳ」山田洋次監督作品
不登校の少年が家出、ヒッチハイク屋久島を目指し本当の人生を学んで行く

日時)平成29年3月26日(日)午前9:30〜 午後1:30〜(午前・午後の2回上映となります)
場所)見附市図書館(2F視聴覚室)入場無料・申込み不要先着順(席に限りがあります)
作品)松竹映画2000年(平成12年)120分 監督 山田洋次
出演)金井勇太 秋野暢子小林稔侍、赤井英和、麻美れい、丹波哲郎、前田 吟、笹野高史
   犬塚 弘、桜井センリ中村梅雀余貴美子佐藤蛾次郎 他
主題歌)ゆず

【あらすじ】
 夜間中学、障がい者学園、職業訓練校など様々な「学校」を描いて来たシリーズの最終作
本作の舞台は学校ではなく、不登校の少年が家出し、ヒッチハイクしながら横浜から鹿児島県の屋久島までの旅を描いたロードムービー。旅で巡り合う人々との交流で少年が人生を勉強し、立ち直るまでを描く。社会や世の中が人生や人間の生き方を教えてくれる「学校」なのだと言う事を教えてくれるヒューマンドラマの秀作です。

【見どころ】
山田洋次監督の『学校シリーズ』はいわゆる小中高等学校ではなく夜間中学や養護学校など様々な学校で悩み、苦しみながら働き、勉強する人々の人生を描いている。『学校Ⅰ』で夜間中学を舞台に。『学校Ⅱ』では特別養護学校を舞台に『学校Ⅲ』では再就職のための技術を学ぶ職業訓練校を舞台に描いた。本作は不登校児の中学3年生の少年「大介」がある日家族に行き先を告げないまま家出をした。その理由は屋久島にある樹齢7,000年とも言われる縄文杉に触れてみたいという思いからだった。大介の母・彩子は心配するが父・秀雄は意気地なしの大介がそんな遠くに行けるわけがないとまともに取り合わない。そんな親の心配もよそに大介は、一人旅をしながら道中で様々な人に出会う。学校に行き、勉強して、受験して上の学校に行き、りっぱな大人になり、両親に喜ばれる。果たしてそれでいいのだろうか?みんなと同じような人生を送らなければならないのだろうか?そんなことを改めて考えさせられる作品です。少年役の「金井勇太」君がまずいい。そしてヒッチハイクで出会う様々な人たちもいい。特に長距離トラックの運転手の「赤井英和」と女運転手「麻美れい」がとてもいい。自分の息子も実は不登校自閉症らしく、大介を泊めてやったことで自分の息子と心が通い合うまでが観ていてとても心が温まる。観ていてひょっとすると「寅さん」も放浪の旅を続けながら自分探しをしていたのかも知れないとふと、思ってしまいました。
大介は少年らしく「自分探し」より「自分創り」なのではないか?後半、屋久島で出会う老人「丹波哲郎」とその息子「前田 吟」のエピソード。私は丹波哲郎と言う役者の最高の演技を観たと感じた。歳をとると言う事と息子としての優しさと思いやり。そして認知症、介護問題までがここで描かれる。年老いた父の寝ションベンを怒鳴る息子に大介が思う当たり前の気持ちの「老人を労わり、息子がやらなければならないこと」の言葉が誰の胸にも突き刺さる。大人になることの本当の意味は学校では学べない。そういう視点から見た「学校」の在り方を、少年の旅を通じて、山田洋次はものの見事に描き切った。学校シリーズの最終作です。
見附シネマ倶楽部

高齢化と格差社会そしてポピュリズム

日本社会で老人のことを「高齢者」と呼ぶようになったのは昭和31年からだそうです。前期高齢者は65歳から74歳まで、75歳からは後期高齢者と呼ばれる。この高齢者の呼称は自分がその年齢に達した時、はじめて身に沁みる言葉だ。更に介護保険証が送られてきて、市民の健診料が無料になり、より現実的なものとなり、思いたくもない、考えたくもない「老い」と言う現実が目の前に横たわってくる。還暦を迎えたときは「もう、若くはないのだ」と感じたが、そんな生易しいことではない。
最近、前期高齢者の呼称を「准高齢者」と呼んだらどうかとする意見があったが私に言わせればどっちも似たり寄ったりだ。
高齢者が増えたことと、資本主義や民主主義も転機を迎え、誰もが幸福に豊かな世界は実現するどころか益々、格差が広がり、社会不安が拡大し、過激な主導者や意見が聞こえたりして不安定な社会が広がっているような気がする、高齢化と将来への不安も漠然とした見通せない将来への不安等の増大につながっているように感じています。

ところで最近のニュースのトップは「トランプ大統領」の言動がダントツですよね。アメリカだけではなく世界中にも、日本にもこの見附市にも必ず「不平、不満、批判、反対」をする人たちはいます。「俺が不幸で不遇なのは誰々の所為、政治の所為だ」と…。
政治や市政は言う間でもなく国民、市民のためにあります。
トランプさんは「アメリカファースト」小池都知事は「都民ファースト」と主張しています。わが身が第一は考えて見れば当たり前の話ですが、自分の幸せは他人の不幸では困りますよね。
二宮尊徳は盥の水に例え「水を我が方へかき寄せれば水は益々向こう側にいき、反対に向こうに水をやれば我が方に水は戻ってくる」と話し、人のために尽くすことが我身に還ると言っています。
我が身の正当性、正義性、優位性を主張するには余りにも厚かましい。それなら他人を批判し、攻撃する、どこかの野党みたいな言動は余り褒められたものではないですよね。
人は誰でも「褒められたい。認めてもらいたい」逆に「批判されたり、攻撃されたくない」と考えるはずです。
自分と意見や立場の違う他人を「褒めないまでも認める」この寛容さとキャパシティが必要と私は思っています。
他人を「攻撃」「挑発」して自らの行動を「正義」「自慢」「主張」するような考え方では何も生まれないと私は思います。
モノの「価値観」「優先順序」「意見」これらは総称して「見解の相違」と言いますよね。この相違を当たり前として、人の意見や考え方にも「そうか、そんな考え方もあるよね」としたうえで自分の意見、主張をする、是非そうあってほしいと思います。
ポピュリズム」と言う言葉が最近また、復活しているようです。大衆迎合主義は大衆が喜ぶような発言をして大衆を煽り、自分の意見に反対する者を徹底的に攻撃、批判する考え方が最近世界に広がりはじめたことに危惧を感じています。