高齢化と格差社会そしてポピュリズム

日本社会で老人のことを「高齢者」と呼ぶようになったのは昭和31年からだそうです。前期高齢者は65歳から74歳まで、75歳からは後期高齢者と呼ばれる。この高齢者の呼称は自分がその年齢に達した時、はじめて身に沁みる言葉だ。更に介護保険証が送られてきて、市民の健診料が無料になり、より現実的なものとなり、思いたくもない、考えたくもない「老い」と言う現実が目の前に横たわってくる。還暦を迎えたときは「もう、若くはないのだ」と感じたが、そんな生易しいことではない。
最近、前期高齢者の呼称を「准高齢者」と呼んだらどうかとする意見があったが私に言わせればどっちも似たり寄ったりだ。
高齢者が増えたことと、資本主義や民主主義も転機を迎え、誰もが幸福に豊かな世界は実現するどころか益々、格差が広がり、社会不安が拡大し、過激な主導者や意見が聞こえたりして不安定な社会が広がっているような気がする、高齢化と将来への不安も漠然とした見通せない将来への不安等の増大につながっているように感じています。

ところで最近のニュースのトップは「トランプ大統領」の言動がダントツですよね。アメリカだけではなく世界中にも、日本にもこの見附市にも必ず「不平、不満、批判、反対」をする人たちはいます。「俺が不幸で不遇なのは誰々の所為、政治の所為だ」と…。
政治や市政は言う間でもなく国民、市民のためにあります。
トランプさんは「アメリカファースト」小池都知事は「都民ファースト」と主張しています。わが身が第一は考えて見れば当たり前の話ですが、自分の幸せは他人の不幸では困りますよね。
二宮尊徳は盥の水に例え「水を我が方へかき寄せれば水は益々向こう側にいき、反対に向こうに水をやれば我が方に水は戻ってくる」と話し、人のために尽くすことが我身に還ると言っています。
我が身の正当性、正義性、優位性を主張するには余りにも厚かましい。それなら他人を批判し、攻撃する、どこかの野党みたいな言動は余り褒められたものではないですよね。
人は誰でも「褒められたい。認めてもらいたい」逆に「批判されたり、攻撃されたくない」と考えるはずです。
自分と意見や立場の違う他人を「褒めないまでも認める」この寛容さとキャパシティが必要と私は思っています。
他人を「攻撃」「挑発」して自らの行動を「正義」「自慢」「主張」するような考え方では何も生まれないと私は思います。
モノの「価値観」「優先順序」「意見」これらは総称して「見解の相違」と言いますよね。この相違を当たり前として、人の意見や考え方にも「そうか、そんな考え方もあるよね」としたうえで自分の意見、主張をする、是非そうあってほしいと思います。
ポピュリズム」と言う言葉が最近また、復活しているようです。大衆迎合主義は大衆が喜ぶような発言をして大衆を煽り、自分の意見に反対する者を徹底的に攻撃、批判する考え方が最近世界に広がりはじめたことに危惧を感じています。