東海道五十三次 草津宿



1月27日28・29日と滋賀県 草津市大津市へ行政視察で行ってまいりました。後日、視察内容は報告しますが江戸時代の東海道五十三次草津宿で賑わった宿場町です。実際に歩いてみると意外と狭い東海道です。マンホールのフタも風情あり。琵琶湖沿いの魅力的なまちでした。昔の高札も道端にあり、世が世であれば「怪しき風体」の私などは役人に呼び止められ、簡単には通れなかったような気がします。まちの景観条例もあり道幅、建物の色など規制があり昔を偲ばせる町並みが素敵でした。しかし、道路にはご覧の通りの電柱、電線、トランスなど無粋ですね。草津市役所の方に聞いたら分かっているが予算など悩みのようです。電柱・電線なしは世界の先進国の常識で先進国でこのような電線が市街地にニョキと立っているのは実は日本だけとか。日本の常識は世界の非常識とも言えます。




昔の人の健脚は想像以上のものですね。しかも、食生活は菜っ葉や干物の魚などでこの体力です。恐れ入りました。

今年の目標

昨年9月に「まち・ひと・しごとの創生」としてまちづくりゾーニング=定住促進・18年教育を柱に教育=人づくり・そして産業育成=雇用の3つを掲げた【見附市 総合戦略】が発表されました。この総合戦略は平成27〜32年度までの6年間の計画期間で進められます。国家的課題の超高齢・人口減少社会への取り組みを見附市では人口減少しても将来にわたり持続できるまちづくりを進めて行きます。これまで推進してきた「スマートウェルネスみつけ」の基本的な考え方を骨格とした取組みです。
これからのまちづくりは市民と行政との協働作業です。
私は個人や地域、世代などそれぞれの考え方や要望もあるかと思いますがまち全体を俯瞰しながら全体の一歩をどう進めるのかが大切と思います。例えば加速度的に進行する高齢化はイコール医療や介護、福祉への負担につながります。自分の健康は自分で守る⇒自助だと考えます。自助で出来ない事が地域包括ケア⇒共助。そして市立病院など医療の郷⇒公助と連携される訳ですが市民の意識では健康や体型など気にしない運動・健康(美容)無関心層が約65%もおられることが事実なのです。
生きがい(例えば趣味や仲間づくり)をもち毎日を元気にハツラツと過ごすために何をすべきか考える。出不精にはならない。身なりに少し気を配る。などほんの少しの考え方や行動で変わることも多いかと思います。自分のことだけしか考えず自分のおもうようにならないことを全て世の中の所為と思い「不平・不満・批判」で暮らしても何も変わりません。自分自身や家族、身の回りの意識改革、生活改善、行動力こそがまちづくりになるのではと思いませんか?私も心がけたいと思います。
話しは変りますが話題の映画「スターウォーズ フォースの覚醒」を帰省した息子と観てきました。遠い昔、はるか彼方の銀河系で…。
A long time ago in a galaxy far, far away....

ご存じ全体三部構成(9部)の中で映画化された順序は4・5・6から1・2・3そして今回は7作目となりますが今後8・9の完結篇へと続きます。映画化の第一作の「新たなる希望」が公開されたのは1977年で完結するのは2019年と言われています。時間軸で3部を分けると1・2・3はアナキン篇(ダース・ベーダ―)4・5・6はルーク篇(アナキンの子供でレイア姫と双子)そして7・8・9レイ篇(ルークの娘)と別れていて、つまりは親から子そして孫へと続く3代にわたる家族の絆の物語でもある。今回公開された7作目の内容は主人公と時代を孫世代にしたもののストーリーは4作目とほぼ同じで主人公が自分の生い立ちを知り最終的には帝国の兵器「デススター」を破壊するまでの物語です。この壮大な物語で普遍的に描かれるのが万物を司る力・フォース(当初字幕では理力となっていた)を操りライトセーバー(光線の刀)を持つジェダイの騎士と呼ばれる者たちの心の葛藤です。正義の騎士として選ばれたジェダイの騎士たちの中にも最終的に負の感情から生まれるフォースの暗黒面(ダークサイド)に引き込まれてしまったアナキン(ダースベーダ―)やカイロ・レン(実はハン・ソロレイア姫との間に生まれた息子)たちも人を憎み、妬み、嫉妬、懐疑、不安などから暗黒面に引き込まれるさまが描かれています。現実の世界でもポジティブに考えるかネガティブに考えるかで人生は変わります。皆さんくれぐれもダークサイドに引きこまれないよう明るく肯定的に考えましょう。そして行動を起こしましょう。今年の目標ですよ!

今年から来年へ


来年は何が見れるかな!?
今年も残すところあと2日となりました。いろいろなことがあった今年ですが来年はどんな年になるのでしょう?考えて見れば今から11年前の平成16年ころから少子高齢化と言う言葉が盛んにマスコミ等で使われてきたように思います。見附市では65歳以上のひとたちの人口⇒高齢化率は約29%です。この比率がこれから上がってくるわけです。高齢化に伴い社会保障や地方経済も消費傾向も少しづつ変化が起き今までの常識や価値観、経済、社会構造も変化してくると考えられます。高齢化率の上昇と共に逆に労働人口は減少することになります。18歳から64歳までが労働人口と呼ばれ働いて収入を得ている人たちの事で見附市は私の推計ですが23,000人くらいかと思います。

仮に将来この労働人口が半減すればそのままの給与であれば総所得も半減し、地方経済は益々低迷することになります。果たして企業は給与を上げて行くことは出来るのでしょうか?高齢者が増加し労働人口が減少すれば若干の代替え需要はあるものの全体として新規需要が減り当然消費人口が減り製造業が中心である見附市も厳しい経済環境となることが予想されます。見附市の企業の製造業が占める割合は繊維を中心に約27%それに建設業なども加えると約35%(私の推計ですが)となり影響は大きいかと思います。加えて数十年前から繊維は海外のコストに対応できず全体の発注も年々減少してこのコストに対応すべく機械化出来る部分は設備投資しています。機械化することは別の見方をすれば少人数で生産ロットを上げることにも繋がり、売れていないのに作り続けなければ業績を存続出来ないという皮肉な結果となり市場にモノが溢れ値崩れを起こしデフレとなることも考えられます。(ちなみに見附市の製造業に携わる従業員数は約5,500人で製造業の比率の25%は全国、県内の平均より高く影響は小さくありません)

人口減少、高齢化を考えた時最早、大量消費、使い捨ての時代に決別し、地球環境も考え循環型社会や消費構造の新しい考えにシフトする時代ですが果たしていいものを少し高くても長く愛用すると言う今までと反対の思考が出来るのでしょうか?私もかってアパレル産業の社員で多くのデパートやアパレル、お店等にニット製品を企画製造販売していましたが普通売れると思われる予測を立てロット、カラー、サイズ、投入時期、上代設定をして店頭に並べる訳ですが結果として売り切れずバーゲンセールとして10%〜際限のない割引をしてしまい、益々そのブランド価値やお店のランクを下げてしまう負のスパイラル減少が今までの仕組みややり方の中で定着してきました。

私は日本が世界に誇る川久保玲さんやジュンヤ・ワタナベさんが作る「コム・デ・ギャルソン」のニット製品をかって取引し作っていました。この「ギャルソン」は色数は精々2色〜3色、サイズは2種類くらいで元々ロットも大きくなく作りは大変難しく作り手、工場泣かせでした。難しいと言うのは大量生産には向かない作りと言う意味で難解や複雑とは違う意味です。普通のブランドは出来るだけ色数やサイズを増やし似通ったデザインも数種類作り出来るだけ多くの消費者に対応するようにしていますが「ギャルソン」は真逆の方向で言わばブランドの方が着る人を選んでいるのです。この「ギャルソン」を着るためにお小遣いを節約し、ダイエットして!姿勢や歩き方にも気配りし!他のアイテム(靴やバッグ、時計)などにもこだわり!「ギャルソン」を着て行く場所まで考えるんです!だから世界中の若者にステイタスとして憧れのブランドに成り得るのでしょう。他のブランドが売れ残りバーゲンするのに「ギャルソン」は余り残りませんし仮に残ってもバーゲンなどせず税務署員に立会いさせ焼却処分とするのです。ブランドイメージを維持し、ファンに常に枯渇感を与える見事なまでのブランドポリシーを貫き「神話」を創りあげたのです。

安くていいモノも確かに必要でしょう。また、工業化して品質の安定した均一の製品も価値があります。その中でも素材にこだわり、丁寧な手作りによって見た目、手触り、使用感、操作感そして何よりも持つことの喜びを感じ続けられるモノも大切です。使い捨て、大量消費の時代を見直す今だからこそ。

日本人だけでなく世界の多くの人達も手作りで丁寧に創られた品々を親子数代まで手渡しし、長く愛用してきた時代があったのです。余りにもサイクルの早い新技術革新が常識化して先端的な商品が世界を駆け巡ってきましたが見直す時代となったように感じます。私は10代から続けてきた趣味にオーディオとビジュアル(これをオーディオのAとビジュアルのVでAVと言いますが)があります。現在も愛用しているスピーカーは何と1949年(私の生まれた年)に販売されたJBLのユニットを未だに聴きこんでいるのです(何と生誕67年を迎えることになります)アンプやデッキやプレーヤーは何世代か買い換えましたが、このスピーカーだけは手放せません。正月もこのJBLで好きな音楽や映画を楽しみたいと思います。皆さん良い年を!


市民交流フェスタと市街地地域コミュニティ

先週22日はネーブルみつけで市民交流フェスタ=市民活動グループや団体の発表。私の見附シネマ倶楽部もブース作り今までの上映作品や今後の上映作品を展示ちなみに11月は本日、「人生いろどり」という四国小さな町のおばあちゃんたちの葉っぱビジネスが成功する実話に基づく物語富司純子吉行和子らで映画化した作品を上映します。そして来月12月は今年最後の市民シアターで「次郎長三国志中井貴一鈴木京香主演の娯楽時代劇を上映いたします。ご来場をお待ちしています。

また、昨日(28日)は冷たい雨の中、市街地地域コミュニティの設立準備に向けまち歩きをしました。午前9時30分中央公民館を出発し、本町新町商店街はじめ渡里町、見附病院跡周辺や裏通りの飲み屋街などを巡りました。いつも夜に徘徊してるので明るい中景色はいつもと違って見え新鮮でした。お昼には中央公民館に戻り、弁当を食べた後、まち歩きで改めて発見した家や街並み、道路や小路などのマップづくりと発表を行い。夕方の4時からは会場を移動し、四季亭さんで慰労懇親会で盛り上がりました。寒くて冷たかったけど参加者の温かさ触れられ楽しい一日でした。

日本人と選挙制度 締め括り

先回の続きⅡ

小選挙区制と併用し「比例区」を導入し選挙民が否定した候補者が比例で復活当選するなど「民意」を無視した結果となることに多くの国民が「納得」出来ない「違和感」も現在の選挙制度では解決出来ていません。
現実として「金の掛からない選挙」が出来ないならば国税を使う「政党交付金」や献金企業等が見返りを求める「各企業の企業献金」などをどのように透明化するのかでしょうが誰が考えても見返りの無い「企業・個人・団体・組織等)献金などは考えられないかと思います。背景として「リクルート事件」など際限のない汚職事件の頻発する中で抜本的に解決するため(出来ないくせに)企業・労働組合・団体などから政党・政治団体への政治献金を制限する代償として1990年代の政治改革論議において浮上し、1994年に政党助成法を含む政治改革四法が成立し導入された法律はまさに「ザル法」とも皮肉られながら現在まで政治家や政治団体はあらゆる手段を講じ、献金を受けている。
政党交付金の総額は総人口に250円を乗じた額とされその総額は300億円を超えその使途は政治家個人の裁量に任され、報酬と公設秘書、交通費などの特典を併せ国会議員一人当たり約2億円の歳費となっていて「国会議員になったらやめられない」と思う。日本と同じ二院制のイギリスでは総額は200万ポンド(約2億9,200万円)と固定されその使途も政策立案活動に限定されている。
また、選挙民(国民=市町村県民など有権者の全て)も政治団体の主催する議会報告会、忘新年会、研修旅行、など後援会が主催するありとあらゆる集会に参加し会費以上の飲食や特典を期待し、現実にその「恩恵」を受けていて政治家だけが汚いなどと言えた義理ではない。また地元神社などの祭礼でも「初穂料」などの名目で政治家からの現金を期待している。政治家となると年賀状も出せないし、町内のイベントにも寄付金は出せないのに実は堂々と行っている。日本人特有のお互いがもたれ合う習慣(お土産、お歳暮、年始、お中元、ご祝儀などなど)がある以上、政治家や政治、政党だけにクリーンを求めても無理です。国民の殆んどが、ご挨拶、お礼、お返し、記念など日常的に金品のやり取りを行い習慣化していますからね。
守れないし、守る気持ちもお互いにない習慣が現実なのに法律が作られ「選管」が形式だけ「明るい選挙」を謳っている。
これらの様々なうわべと現実が存在している中で現在は小選挙区制が実施されている。二院制、議院内閣法、参議院の存在理由、政党政治なども含め選挙制度を考えなければ単に「小選挙区制」と「中選挙区制」を比較しても結論は出ないと考えます。
もし仮に「自民党」以外の政党が今後育ち米国のような政治体制が出来て(この場合は旧保守と新保守のような)選挙の度に「失策」「失言」「不祥事」など言わば「週刊誌」的な事件でその都度政権が代わり、法律や制度まで変わる様な状態も逆に国民が
不幸になるのではと思います。昔は「国家百年の計」と言われましたが現代はそこまで言わないものの少なくても「10年〜20年」くらいのスパンで国家戦略や国際関係の基本方針を国民に示し、何を進め何を我慢するのかを示せないような政治家や政党では情けない。
小選挙区制度」と「中選挙区制度」を比較しても結論が中々でません。それくらい難しい問題でメリットもデメリットもある制度なのでしょう。どちらも欠点があるなら「併用制」も


考えられますがやはり中途半端な効力の薄い制度となるように思います。根本的に制度を変え米国の様に大統領制など考え出したらキリが無い大きな問題に発展するようです。理想は国民ひとりひとりが政治家や政治を育て、見守り、チェックする意思を持ち続けられるかだと思います。「世襲」「政治資金」「後援組織」など「是は是、非は非」と言えるなら「小渕優子」は政治家をやっていられないでしょう。本人も辞める気も無いし罪悪感もなく「運が悪かった!」程度の認識しかなく、後援会組織も同様で、一層組織固めをするだけでしょう。それが日本の現実の政治家と選挙民だと思います。

最後に政治、文化、芸術はしょせんその国の国民のレベルに比例すると言う言葉があります。その通りだと私は思います。

議員定数、身分、報酬、選挙制度等々様々な制度、法律など多くの制度も考えなければ「小選挙区制」や「中選挙区制」それぞれのメリット、デメリットも結論の出ない問題ではと思う次第です。


本日、朝8時30分から見附市原子力防災訓練が行われました中越地方に発生した大規模の地震により東京電力柏崎刈羽原発で冷却装置等が停止、半径30キロの範囲に屋内避難指示が出たとの想定での訓練です。「訓練」とはいえ緊迫感漂うリアルな対策本部での緊急会議や訓練が行われました。あってはならないことですが日頃の訓練も大切ですね。ご協力いただいた杉沢堀溝地区の皆さまご苦労様でした。



小選挙区制度と中選挙区制度


前号からの続き
従来の中選挙区制から各選挙区で1名しか当選できない「小選挙区制」を導入するに至った背景には戦前、戦中、戦後を通じ保守政党の独裁政治による政権内部の腐敗と政権与党と官僚との癒着、更には財界や企業等の利権を引き換えにした政治資金が政党勢力に直接影響力を与える構造的な汚職などが国民の間で積年の「政治不信」となり政治離れ(投票率の低下)を一層加速した社会状況なども勘案し選挙区制度そのものを改革しようとした動きの中で制定されたように思います。

それまでは企業や団体、組織からの「献金」と言う寄付行為(=汚職となる可能性大)も社会問題化し、それにより「政治資金規正法」を作らざるを得なくなった政治は「金の掛からない選挙」を目指すとしながらも今現在まで「既得権益」を何が何でも守りたい組織(例えば戦没者傷痍軍人等遺族年金団体・特殊法人等無数ともいえる)などの支持組織とお互いの存続のために結び付かざるを得ない状況下の関係だったように思います。また、金の掛からない選挙などどこの国を例にとってもあり得ない現実です。

政治=汚職を払拭するためには「クリーンな政治・選挙」をどう国民の前に明らかにするのかと言う課題の果て、企業年金を廃止し、税金からの「政党交付金」を支給する法律を策定し、現在の仕組みになったと記憶しています。
しかし、法の網はいくらでも潜り抜ける手段はあり、大企業では社員にボーナス等の名目でお金を渡し、個人として特定の議員に個人献金として寄付させるなどどうにでも処理することが可能です。
政治資金が各政党に勢力(議席数)に応じ、交付され「小選挙区」の制度の中で「公認」として選ばれる「議員」は「応援」面「資金支給」面など全てにおき党の方針に「絶対服従」の選択肢しかない「陣笠代議士」を生むことになると思います。「小選挙区制」は政権交代を視野に入れた選挙制度

「オセロゲーム」で言えば白が一瞬で黒になるとした考えでこの考え方はある意味一番日本民族にそぐわない制度フランス革命のギロチン、大統領を暗殺する米国)とも言えるのではないかと思います。(明治維新でも徳川慶喜は死刑にならず、太平洋戦争でも東条英機GHQの裁判により死刑となったので、もし、日本人の手で裁判が行われたならば極刑は免れたのではと思います)

小選挙区制と併用し「比例区」を導入し選挙民が否定した候補者が比例で復活当選するなど「民意」を無視した結果となることに多くの国民が「納得」出来ない「違和感」も現在の選挙制度では解決出来ていません。
又続く。

日本人と選挙


日本人は真面目で平均的に頭も良く、良識やモラルもありますが「目標」や「標語=スローガン」好きの傾向があります。そこまでは良いのですが実行力が今一つ弱いところがあります。「分析」してそこから「何を成すべきか」が大切です。以下、余り参考にならない事かも知れませんが考え方を自分なりに綴ってみました。まとまりのない話でもあります。大変難しく結論の出せないことでもあります。

最近コレクションの中から戸川猪佐武原作の「小説 吉田学校」を映画化した作品を観直し戦後GHQ指導の下で新憲法発布そして総理までも米国服従となるような体制に激しく抵抗した吉田茂保革、野党乱れる中で現在の巨大保守政党が誕生するまでを描き吉田の他、鳩山、河野、池田、佐藤、田中、中曽根、麻生、岸、渡辺、竹下、海部、中川、福田、三木、松野、宮沢などが登場して権謀の限りを尽くし離合集散を繰り返し、やがて保革大連合の「自由民主党」の誕生までを描いています。真の政治家とは何かを少し学んだように思います。

来年の参議院議員選挙から18歳からの選挙権が認められ始めて実施される。その昔庶民や婦人には選挙権がなく、高額納税者だけが選挙権があり、資産家だけが政治家や政治体制を決める権利の時代があり、当時の教育レベルではやむを得ない制度とも言われた。言わば封建制度士農工商の時代に政治は武士階級が受け持つことと似通った制度だった。果たして18歳以上の若者がどのような投票結果を創りだすのか興味がある。当たり前のことですが国民の幸せの実現のために国家はあり政治があり政党があり政治家がいる。これが目的であり政治以下は国民の幸せを実現するための手段とも言える。しかし現実は自分たちの幸せの実現のために投票し結果として誕生した政治家や勢力を持った政党が国民不在の政治を行う。言い換えると手段が目的の上を行き、手段がその存在を目的より上位となっているように思います。
国民は毎回のこの現実を見ながら徐々に政治不信を高め、投票率低下を生んでしまったように思います。税金は律令制度と共に発展し法律と制度を守り進化させる財源として公益性、公平性、継続性、将来性など誰もが納得出来る使い道でなければならない。国造り(まちづくり)は集落が出来、自治と共に自然発生した秩序のより完成された確立を理屈ではなく大衆が創り上げてきたように思います。この秩序があってこそ家族をもち、一家を成すことが出来身近な幸せを感じ、近所や周辺、町内、まち、県、国を考えることが出来ます。
つまり言いたいことは個人⇒家族⇒周辺⇒市・県・国家⇒更に個人へと全てが繰り返し循環しながら進化することかと思うのです。
以下続く。