V-storm50の時々日記 講演2つ


見附まつりも無事終わった28日(月)の夜6時30分よりネーブル長岡市の「河井継之助記念館」館長稲川明雄氏を講師に迎え「河井継之助とみつけ」と題した講演会がありました。
幕末で最も悲惨な戦いと言われた北越戦争で官軍と戦った越後の英傑と呼ばれた継之助が官軍に奪われた長岡城奪回のため見附に長岡藩士を中心とした奥羽越の同盟軍兵士らが見附の庄屋金井邸に集結。必死の奪回に向かう兵士を前に継之助は「我々の故郷と家族を取り戻すためこれから奇襲作戦を行う」と語り兵士たちの結束を呼びかけたという。時に慶応4年7月24日の夜であったと言う。

かがり火が焚かれ集結した兵士たちには鯖の刺身が振る舞われ、多くの見附の住民が集まり、その勇気を讃え、武運を祈り送り出したという。そこから数分の場所「称名寺」で出撃の支度の確認後、寺の裏に流れる暴れ川と呼ばれた刈谷田川を渡り、有名な八丁沖と呼ばれた大湿原の沼地を腰まで泥につかりながら進軍し奇襲作戦は成功し、長岡城は継之助ら同盟軍が奪い返した。

稲川氏の説明によれば何故見附を奪回の集結地にしたかは見附には当時からきちんとした町があり戦備の物資が全て揃えられたからと話されました。
当時の戦争(現代の戦争でも)でも武器弾薬、医療品、食料等だけでなく旗指物、衣服、下着などの繊維品(見附は繊維のまち)染屋、縫製などの手作業も必要、更に油、蝋燭、各部隊の連絡に使う手紙の紙や筆、墨などさまざまな総合産業が関わる必要があり見附ではそれらの産業がまちのなかにあったと言う。更に、部隊の集結が出来る、大きな屋敷(庄屋)寺院、神社なども点在していた。それらの施設は宿泊や作戦会議は勿論、いざ戦闘が始まれば司令部や野戦病院にもなった。
現に西蓮寺、小栗山不動院、指出の浄恩寺等には兵士たちの墓や戒名も多数ある。

稲川氏は見附は昔から産業が栄え、そのため商業も活発で歓楽の私娼たちも大勢いたと話し、近郷の娘たちが集まっていたとのこと「見附美人」が多いのはその影響ですよ。と、会場を沸かせました。氏は当時の教育についても「朱子学」と継之助が学んだ「陽明学」とを比較したり、継之助ら武士団の我が身を犠牲にしても民衆のために尽くす行動の根底についての洞察について熱く語られました。昔も今も教育の根底にあるものは「持続可能な倫理を学ぶこと」と結ばれました。

そして本日30日朝6時からホテルレアント」でのモーニングセミナーは新潟産業大学准教授の「蓮池薫」氏が講演を行いました。「逆境を強く生きる」と題した講演です。
あの日(1978年)柏崎の中央海岸でいきなり5〜6人の拉致工作員に殴られ、袋に詰められ沖の工作船に乗せられ北朝鮮に拉致された生々しい体験を話されました。
どんなに懇願しても神に祈ってもどうにもならない深い絶望の中で起きてしまった現実を直視し、悶えながらも今できることに打ち込みある意味開き直る心の強さを持とうと決意したこと。

「故郷への思いは断ち切ることはしないが、深入りはしない」
「懐かしがっても恋しがらない」
「どんなにつらくても精神的余裕は失わない」
などをふたりで話し合い、打ち込めたり、楽しんだり出来ることを見つけた。
酒は飲めなかったが二人で夜や休みの時に飲むことを覚えた。市販の酒は目がつぶれるなど怖いのでふたりで自家製の蒸留酒を作ったり、梅が無いので杏子で梅干しもどきを作ったり、日本にいるときは嫌いだったきんぴらごぼうを食べたくなり道端のヤマゴボウを畑で育て料理にするなど…。

監視付きで外出が出来るようになったある日平壌の広場で人だかりがあり近づいて見ると日本の放送局のテレビ中継が行われていてレポーターが「中村敦夫」氏だった。もし、その中に飛び込み「助けてくれ!」と言えたらと体がガタガタと震えた、でも家族はどうなる、近しい人のその後の運命を考えると出来なかった。

またある夏、朝鮮の元山という海水浴にいき日本海を見た時、この海は懐かしい柏崎に続いていると思うと泳いでいけないだろうかなどと出来もしないことを考えてしまった。ふたりが付き合っていたころの柏崎、仲間を思い出し、望郷の思いがこみ上げてきたこと。

ある木の枝振りがゴルフの道具に似ていてゴルフをやろうと木を削り、ウッド・アイアン・パター兼用のクラブを自作しボールはゼンマイの綿や布団の綿を固く絞り糸を巻いて作り、自然の中でゴルフを楽しんだり(蓮池さんは北朝鮮で一番最初のゴルフを始めたのは僕と会場を沸かせました)
麻雀も木を削り手製のサンドペーパーで磨き牌を作った苦労話…。

夜、つまらないテレビの中でも楽しみにしている「ロシア」の映画が放映される時間帯に起きる停電(何と15時間も)や冬マイナス20度の極寒の中での停電(床下にニクロム線を通し電熱での床暖房)で凍え死ぬと思い自家製の炭作りの失敗談や10日間も風呂に入れず松の枝をかき集めドラム缶でお湯を沸かし垢を落としたつもりで朝になってお互いをみると松の煤で顔や体が黒ずんでいたことなどを話されました。

今、再交渉の拉致問題が始まり、蓮池さんが一番懸念することは「北朝鮮はしたたかです。包括的の解決と称し拉致被害者、特定失踪者、日本人遺骨収集、日本人妻などを一緒にし、遺骨収集や日本人妻の一時帰国などを少し行い実績を強調し、経済制裁の全面解除を要求し、一番肝心な拉致問題をぼやかそうとするのが懸念されます。「どうぞ、皆様方も注視しながら拉致被害者全員の帰国を応援して下さい」と結ばれました。

2つの講演はそれぞれ自分の胸に深く刻まれました。