V-storm50の時々日記 艶歌

私は小説が好きで若いころから読み漁り、同時に映画そして音楽も大好きです。昨年の暮れ「島倉千代子」が亡くなったと報道された。昨年8月に自殺した藤圭子、2人の女性歌手の死に昔読んだ五木寛之の小説がふと蘇った。


五木寛之の小説『艶歌』(1966年)『涙の河をふり返れ』(1970年)『海峡物語』(1977年)『旅の終りに』(1986年)に出てくる主人公「高円寺竜三」のモデルで昭和の時代艶歌を中心にレコード業界をリードした男「馬渕 玄三 」(まぶち げんぞう)のことだ。活動期間1958年 〜1997年 日本コロムビア 日本クラウン などで活躍した音楽ディレクターである。五木寛之の小説の主人公「艶歌の竜」こと「高円寺竜三」のモデルとして知られる。映画・テレビドラマ版では芦田伸介が高円寺を演じた。馬渕は島倉千代子のヒット曲「からたち日記」小林旭『さすらい』『アキラのダンチョネ節』 美空ひばり『ひばりの佐渡情話』 水前寺清子三百六十五歩のマーチ石橋正次『夜明けの停車場』 などをヒットさせた。その後、コロンビアを退社し、 レコード会社日本クラウンの設立に参加。北島三郎や、水前寺清子などを手がける。後に、山本譲二の『みちのくひとり旅』(1980年)のヒットにも寄与する。

五木寛之の短編小説集で直木賞の「さらばモスクワ愚連隊」に収められた「艶歌」の主人公「高円寺竜三」は艶歌に代表される流行歌がポップスと呼ばれる新しい音楽に押し流されていくさまを新進気鋭のプロデューサー黒沢とポップス対艶歌のヒット曲対決で争った挙句、負けて会社を去るまでの物語で私の印象深い短編のひとつだ。その小説の中で不幸を背負った若い新人の女性歌手「眉京子」が藤圭子をモデルとしている。藤圭子は、1969年に「演歌の星を背負った宿命の少女!! 黒いベルベットに純白のギター!!」というキャッチフレーズでデビューした演歌(怨歌・艶歌)歌手である。
実はデビュー時18歳であったが、公式には「17歳」という触れ込みであった。当時はタレントの年齢など、商品としての価値を示すひとつのスペックにすぎなかったのだ。だが、この1歳差の意味は大きい。17歳で若くしてデビュー、なのではなく、17歳で自立して働かねばならないワケありの少女、という意味なのである。
 デビュー曲「新宿の女」がロングランで支持されたのを基盤に、同曲を収納したファースト・アルバムはオリコン・アルバムチャートで20週連続1位、セカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位、合計37週連続1位というヒットにつながる。
ちなみにこの年昭和44年は小説で描かれているように艶歌が衰退してポップスと呼ばれる新しい音楽がヒットした「白いブランコ」「或る日突然」「夜明けのスキャット」「真夜中のギター」「鳥になった少年」「フランシーヌの場合」そして「時には母のない子のように」などである。その後、現在に至る艶歌の衰退とJ-POPの台頭ははご存知の通りである。昭和58年のヒット曲で百二万五千枚を売った「矢切の渡し」以来シングル盤でのミリオンセラーは出ていないと聞いている。
藤圭子はその人気と連動するかのように「貧しい生活を支えるために高校進学を断念」「夢は母と一緒に暮らすこと」「いまは作詞家の家に居候中」「女・森進一をめざす」「レコードの印税100万円が恵まれない人々へ贈られる」「過密スケジュールのためステージで倒れ、喉の酷使で声に異変」「歌手になりたかったが、スターを望んだことは一度もない」…といった逸話が、メディアを通じて次々と公表されていく。彼女の歌声はドスが効いていて「怨歌」とも呼ばれた。父は浪曲歌手・母は三味線瞽女、不幸を背負った歌手としてスターとなってゆく。

五木寛之はよほどこの「高円寺竜三」こと艶歌の竜に惚れこんだのかその後も高円寺竜三を主人公に歌の世界、艶歌を描いている。
藤圭子の小説でのモデル「眉京子」はその後の小説「涙の河をふり返れ」では文字通り不幸をマネージャーによって故意に演出される薄幸の女歌手「水沢忍」として登場し、「海峡物語」では「江差慎一」そして「旅の終わりに」では森谷新児として登場する(前半2人が女性、後半2人が男性歌手)それぞれの新人歌手にも様々な人生や、苦労が描かれ言わばドラマティックな展開が用意されていて読者を楽しませてくれる。

映像化された「艶歌」シリーズには主人公を芦田伸介ほか八千草薫、渡哲也、水前寺清子小泉今日子氷川きよし小林薫、田中美奈子そして藤圭子自身も出演している。小説「旅の終わりに」では日本の艶歌の源流は韓国の歌にあるとし、艶歌の竜が韓国の酒場で新人の少女歌手を見出すエピソードも描かれている。興味ある方に読んでもらいたい「艶歌の竜」シリーズです。