V-storm50の時々日記 エディット・ピアフ


空が落ちてこようと  大地が崩れ去ろうと
そんなことはどうでもいいの
貴方が愛してさえくれれば
世の中なんてどうでもいいの
愛で満ちた朝があれば
貴方の手の中に包まれていれば
世の中の問題なんてどうでもいいの
愛しい人 貴方が私を愛してくれるから

エディット・ピアフによる愛の賛歌の言語歌詞です。「あなた」とはピアフの生涯の恋の相手であったプロボクサー、マルセル・セルダン。有名な「あなたの燃える手で あたしを抱きしめて〜♪」「なんにもいらない あなたと二人 生きて行くのよ〜♪」の部分は、無い。元タカラジェンヌだった越路吹雪のマネージャーを務めていた岩谷時子の訳詞のセンスの良さと手腕であろう。

1915年生まれ
彼女は、少女時代から母の営む売春宿で暮らし、娼婦やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。3歳から7歳にかけて彼女は角膜炎で目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、彼女は16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ちまもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎でこの世を去った。
1935年にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーによって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルプレーは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」」(La Môme Piaf)の愛称を与えた。
ピアフの代表曲「ばら色の人生」は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンス運動への貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。                          
1940年にはジャン・コクトーが彼女を認めピアフのため、脚本を執筆し発表する。戦後、ピアフは世界的な人気を得、1947年のアメリカ初公演で大成功しその後、彼女はシャルル・アズナブールのデビューを手助けし、アズナブールの他にも、イヴ・モンタンジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなどピアフに才能を見出された歌手は多い。

ピアフが見出したジルベール・ベコーとB・Bことブリジット・バルドー

「枯葉」の大ヒット曲でお馴染みの名優でもあるイヴ・モンタン
ピアフの生涯の大恋愛はプロボクサーのマルセル・セルダンとだが、セルダンは1949年に飛行機事故死している。マルセルの死が彼女にとって大きな傷となり1951年にピアフは自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。
ピアフは2度結婚していずれも不幸な結果だった。47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌により帰らぬ人となった。 死はその翌日に公表されたが、同日に友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブール第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。
その小柄な体からほとばしる想像を超える魂を揺さぶる歌声は忘れえない。私の大好きな女性歌手の一人です。
仕事に疲れた時など折に触れ彼女のCDを聞くことがある…。

右の白シャツがシャルル・アズナブール ピアフが小柄と一目で分かると思います。
愛の讃歌
あなたの燃える手で
あたしを抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命のある限り あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの

頬と頬よせ
燃えるくちづけ
交すよろこび
あなたと二人で
暮らせるものなら

なんにもいらない
なんにもいらない
あなたと二人
生きて行くのよ
あたしの願いは
ただそれだけよ
あなたと二人

固く抱き合い 燃える指に髪を
からませながら いとしみながら
くちづけを交わすの
愛こそ燃える火よ
あたしを燃やす火
心とかす恋よ