V-storm50の時々日記 大学入学


4月4日何とか入学した息子の入学式が東京都八王子キャンパスであり参加してきました。父親として恥ずかしながらですが
保育園、小学校、中学校、高校まで一度も入園式や入学式に参列したことはありませんでした。その記念すべき日にいつも
大事な仕事のスケジュールがあり「やれ、出張だ」「どうしても大事な取引先が来社するから」「週一回の大事なオークシ
ョン日なので」などなど…。ついカミさんに任せきりでたった一度保育園の卒園式に出席しただけで卒業式も
行けなかった。今年の高校の卒業式も議会開催中で結局行けなかった。


息子はいつものことと親父の出席など最初から諦めていたようにも思う。今回、遠くても参列できるならばと女房と共に
引っ越しも兼ね3時間半かけ車を飛ばしました。新潟県とは大違い完全に春うららかな少し汗ばむほどの陽気の中、満開の
桜の下での入学式で静かな感動を覚えるとともに、ここまで成長し、今、親元から飛び立とうとする息子に心からのエールを
贈りたいと思います。しかし、いつまでたっても子は子、親は親。無事4年間を過ごしてほしいと願わずにはおられません。

今度見附に帰るのはゴールデンウィークと思いますが、それまで食事も、会話も、買い物も女房と2人きりでTVを真ん中に
弾んだ会話もなく淡々とした食事をして風呂に入り、眠りにつくそんな毎日が続きます。皆さん方も経験された親が通らねば
ならない道なのでしょうね。

保育園、小学校、中学校、高校、そして大学まで一緒となった見附の友達と…。(メガネをかけているのが息子です)
さすがに学部は違い工学部と政経済学部(息子)に分かれますが…。


この大学は明治時代首相となった桂太郎が設立し、初代学長となった大学で新渡戸稲造も学監として大学の発展に貢献して
いてあの中曽根康弘元総理大臣も学長を務めたことがあり海外との交流や特にアジア地域での国際協力を柱に据えた大学で
1900年に設立され2010年には創立110周年を迎えている。その教育は一貫して「積極進取の気概とあらゆる民族
から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」と言う建学の精神のもとに「人種の色と地の境 我が立つ
前に差別なし」と校歌にも謳われアジアへ世界へと羽ばたき貢献できる真の国際人を育成する教育で留学も積極的に
行なっている。
息子にしてみれば残念ながら希望する大学ではなかったようだがここでどれだけ己を磨き社会人として完成させるかが君の
大きな挑戦であり課題です。そしてそれを成し遂げることを期待し、信じて応援します。
親父として次の言葉を贈ります。政治家を例に自分が感じていることを少し話してみます。

政治家にはさまざまな経歴、学歴、資格を持つ人たちがいます。その中には、非常に難関とされる試験に合格し、海外を
含む名門大学や大学院を優秀な成績で卒業し、あるいはずっと首席かそれに近い成績でここまで来た人たちもいます。
 それはそれですごいなあと思うし、私には真似ができないなあ、努力もしたろうなあと認めはします。でも、だからと
いって、それでその人たちが立派だったり、まともだったりするかというとそれは全く別問題です。
 能力の低い自分自身のことは棚に上げて言うわけですが、どんなに輝かしい経歴を誇ろうと、実際、話してみれば
「たいしたことないな」「底が浅いな」「とても賢いようには見えない」ということはよくあります。そして実際、
そういう人たちは、政治家としてはやはりあまり大成しないように思います。
 当たり前の話で、一般に「頭がいい」と言われる「勉強ができる」人たちは、人間のさまざまな能力の一部にすぎない
部分での勝負で勝ったにすぎず、何も総合力で本当に優れているとは限らないからですね。本当の意味での「頭のよさ」
は、やはり自然とにじみ出て相手に伝わるものでしょう。
 それを「地頭のよさ」という表現をする人もいますが、私は個人的には、「いつでもすぐにものごとの優先順位、事の
軽重を判断できる人」「自然なコミュニケーションができる人」「目的達成のために何をすればいいのかが分かる人」
かなあと、感じています。更に「損得勘定」ではなく「善悪勘定」を優先して考えることが出来る人でそういう人となれば
それをひけらかさずとも、自然に周りはそう感じ、理解するものだろうと思います。
そしてしっかりと挨拶が出来、自分の考えや気持ちを相手にしっかり伝えることや協調性などコミュニケーション能力が
大切と思います。静かに語り、相手の話もしっかりと聞けるバランス感覚のある大人を目指して下さい。常識や道徳は
人間として当然身につけて下さい。そして日本人として新潟県人としての誇りをもって人生で最も輝く時間を実感しながら
大学生活を楽しんで下さい。
 もちろん、勉強もできるならできた方がいいでしょうが、勉強ができたから社会で通用するものではないことは、
社会人なら誰もが知っていることです。
 ところが往々にして、その勉強ができた人たちの中には、その一点をもって自分は特別だとか、とりわけ優れていると
勘違いしている人が少なからずいるわけです。そしてそのまま官僚になったもののどうにも思うようにいかず、「これは
きっと環境が悪い。私はここでくすぶっていい人間ではない」とさらに勘違いし、政治家になった人もいるのだろうなと。

 フランスのモラリスト文学の最高峰とされるラ・ロシュフコーは「箴言(しんげん)集」で、「分別」という言葉を用いて
こう言っています。「頭がよくて馬鹿だ、ということは時どきあるが、分別があって馬鹿だ、ということは絶えてない」

 以前大河ドラマで「龍馬伝」があった。龍馬の初恋の人が土佐藩上士の平井収二郎の妹「加尾」で龍馬と付き合う妹に
兄の収二郎は「龍馬は勉強もろくに出来ない馬鹿だから付き合うな」と言って逢わせないようにしたらしい。
龍馬は確かに勉強が出来ずいつも先生にとって持て余しの落第生だったらしいがそれは龍馬が既成の思考からはずれて
いたり、今までの常識をおかしいと思う独創的とも云える思考の持ち主だったからだ。例えば夏の土砂降りの雨の中、
川に泳ぎに行く龍馬を見て「雨が降っているのに泳ぎに行く奴は馬鹿」と考えるのが常識だが龍馬の思考では「暑いから
泳ぎに行く、どのみち雨でも川でも濡れるのは同じ、雨が降るから水泳はしない」と言う思考のほうが理解できなかった
ようだ。
(龍馬=福山雅治 平井収二郎宮迫博之 加尾=広末涼子


本当の平井加尾と演じた広末涼子