嘘の時代劇 ②

時代劇で見かける侍の着流し姿などは現代であれば立派な紳士が所構わず短パン姿で歩いて
いるようなもの。羽織も現代なら上着(ジャケット)と同様で侍はおろかそこそこの町方で
も外出時の礼儀であった。ちなみに幕末 伏見寺田屋で襲われた龍馬は「袴!はかまはどこ
だ」と叫んだと言う。土佐の郷士の脱藩浪人であっても着流しのまま捕り方に立ち向かうこ
とを恥辱としたのです。当時の権威者と言えば老中、若年寄寺社奉行などだがそれらの要
職は譜代大名しかなれず外様大名がなることは出来ない。また、旗本には権威はあっても石
高は低くして、逆に外様大名には権威はないが石高を上げることでバランスをとった。又、
家の者(例え嫡男)であっても庭先や縁側から座敷に上がることなどありえないし、腰に両
刀を差したまま座ることは出来ない(両刀をたばさんだまま座敷に入ることが出来るのは上
使の役儀のみで、迎える側は緋毛氈(ひもうせんを敷き床几を出した)他家を訪問したとき
の当時の慣習では玄関で大刀を腰から抜き取り左手に持って上がる。自宅でも外出先から帰
れば同様に玄関先で家人(大体が奥方)に大刀を渡してから小刀のみを腰に差したまま上が
る。ちなみに大刀の正式名称は本差(ほんざし)小刀は脇差(わきざし)と言う。江戸時代
も元禄に入ると戦国も遠く過去の物語となり武家社会も華美、粋などが台頭し、刀も細身で
無反りなど腰の飾り物となって脇差も軽少短薄になったが本来本差が鍔元で折れたとき本差
の代わりに我が身を守るための刀でそのための長さと拵えのものだった。これも時代劇でよ
く見かけるが奉行や代官、大身旗本(千石近くの)が町人と同座することはありえない(こ
の点鬼平犯科帳は正確で平蔵配下の密偵たちは庭先でひざまずいている)同心で縁先、与力
格でようやく座敷に上がれるのである。

ついでに当時の芸者の話だが名前に男名(桃太郎、子吉、〆奴など)をつけられるのは深川
芸者に限られていた。深川は公許の色町でないためお上をはばかり男名前をつけ(おんなは
置かずのたてまえ)そしておとこ振りの羽織を着た、そのかわり足袋は履かず素足で通すこ
とで意気を示した。ちなみに公許でない場所を岡場所と言い、本気で惚れてないことを岡惚
れ、本物の目明しでないのを岡っ引きと言う。ちなみに目明しであっても同心が身銭をきっ
て町方ややくざ、日陰者などの探索に当たらせるため私的に頼んで手札と十手を渡す。十手
の握り部分に絹のいわゆる朱房や紫房などを巻くのは同心や与力であり目明し風情は藤蔓や
縄を巻いていた。目明しそのものには小遣い程度の見入りしかなく女房や愛人に髪結いや居
酒屋、小間物などの商売をさせ、自らは商家などの弱みに付け込み小遣いをせびるような輩
が多かったようだ。ついでにやくざの語源だが八九三と書いてやくざと読む合計の数が二十
となりおいちょかぶのいわゆるぶたと呼ばれる最悪の数字で役に立たないことを意味する。
話のついでに吉原のことだが吉原での遊びは昼間が武家、夜は町方と分けられていて夜、侍
と町人が行き交うようなシーンは滅多にない。
山本周五郎の「樅の木は残った」で仙台伊達藩の三代藩主伊達綱宗が吉原で遊興したことで
幕府からお咎めを受けいわゆる伊達騒動に発展するが綱宗が遊んだのも日中だった。元々旗
本や大名は暮れ六つ(午後6時)以降は外出出来なかった(幕命で)廓は周囲をおはぐろど
ぶと言われる掘割で囲まれ足抜けなどを防止した。江戸時代はTVや映画のシーンみたいな男
女の恋愛などは皆無に近く、殆どが信頼ある仲人が両家のバランスを見て添わせた。当人同
士も婚礼の日に始めて対面する訳でそれだけ仲人の役目は重要で責任も大変なものだった。
吉原などに代表される廓で花魁との遊びは単なるSEXではなくお金を出して恋愛ごっこが出来
る唯一の場所だったのだ。

花魁の髪型は立兵庫とか横兵庫と呼ばれる言わばど派手な遊女独特の形で鼈甲などの多種類
の髪飾りをつけている。乱れ箱と言う四角のお盆のような入れ物をご存知と思いますが元々
花魁がお客と共に床入りするとき笄(こうがい)や簪(かんざし)櫛(くし)を取っただけ
で髪は腰くらいまでの長い髪になるということで(その髪を櫛などと一緒に枕元の乱れ箱
入れる為の箱でその後、武家や町方で脱ぎ捨てた着物を入れる用途に変化したという(乱れ
髪入れから乱れ着入れになった?)