外山修造と長谷川泰

先日、ファミリアで2週にわたり文明開化に活躍した郷土の意外と知られていない?偉人外山修造と長谷川泰についてのセミナーが
行われ参加致しました。1回目は二人についての学習を、そして2回目の翌週は二人が共に通った耳取の井上五蔵(当時の耳取村と
鳥屋脇村の庄屋)が作った私塾跡や長谷川泰の実家跡などを見学してきました。猛暑の中、受講生27名余りは二人の足跡を偲び
その時代を生き抜き日本の医学界や関西経済界を担った修造と泰を改めて勉強させて戴きました。

外山修造と長谷川泰そしてその二人を育てた井上五蔵についての簡単な略歴です。
井上五蔵(1790〜1874)は19歳から長岡藩学、崇徳館で学び、毎日三里の道を休まず通ったと伝わっています。長じて父の跡を継ぎ
耳取村と鳥屋脇村の庄屋を勤めました。当時用水の確保が困難で岩沢丘陵を切り開き村を移転し現在の耳取町、鳥屋脇町となり田畑を
広げ新田開発にも貢献しました。五蔵はさらに青りょう館という私塾を開いた。この私塾には長岡藩から漢方医の倅で長谷川多一
(のちの長谷川泰=たい)や小貫村から外山寅太(のちの外山修造)などがいた。二人は同年で親友となった。

外山修造(1842〜1916)は長じて長岡藩河井継之助に可愛がられ継之助の助言「修造や、やがて武士の時代は終わるこれからは商才を
身につけろ」の言葉通り維新後、大阪に出て阪神電鉄大阪ガス、日本初の商業興信所やアサヒビールなどを設立し、関西財界の大立者
となった。ちなみに会津塩沢村で終焉を迎えた継之助を下僕の松蔵と共に最後まで看病してその最後を看取ったのも外山修造です。

もうひとりの長谷川泰(1842〜1912)も長岡藩で継之助と共に戦い、維新後は医学者を志し東京に出る。最初、福沢諭吉慶応義塾で医学を
学びその後、のちに東京大学医学部となった大学東校に移り教師となるが総長とソリが合わずに退職し、本郷に済生学舎(現在の日本医科大学
の前身)を創設し、この学校から1万人近い医学者が巣立った。その生徒の中には野口英世や日本初の女医萩野吟子などもいる。その後衆議院議員
となり関西帝国大学(のちの京大)設立の議案提出や北里柴三郎の伝染病研究所の設立を助け、日本初の「下水道法」を成立させた。

明治時代の財界、そして医学界に偉大な足跡を記した二人の人物を育てた井上五蔵は長州で松下村塾を開き幕末の風雲児高杉晋作久坂玄瑞
を輩出した吉田松陰に匹敵する見附市の耳取地区が誇る偉人としてもっと市民に知って戴きたいと思います「みつけの松下村塾吉田松陰
とも言える青りょう館で明治の偉人を育てた「井上五蔵」私も最近知ったばかりの人物です。耳取町の井上五蔵宅の跡地には石碑もあります。